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責任感、当事者意識、自分ごと化って何が違う?

2016年8月18日​ 中土井 僚「日々是内省」 先日ある企業でファシリテーションをさせていただいている中で、考えたことがあります。

それは・・・

「自分ごと化の本質的な定義とは何か?」

です。

「あの人は、自分ごと化していない」とは、よくある批判かと思います。「自分ごと化」していると何かしら主体性があって、責任感があって、その状況を引き受けているような感覚がありますし、そうでない人はそれらがないという感覚はあります。

ただ、だからと言って「自分ごと化しろ!」と言ったところで、言う側も言われた側も、どうすることが「自分ごと化」することに繋がるのか実はわかっていない人は多いのではないでしょうか?

少なくとも私はわかっていませんでした。

私は責任感と当事者意識の違いはこれまでも整理していましたが、自分ごと化だけはぼんやりとしていたのです。責任感があっても、当事者意識はないこともありますし、当事者意識があっても責任感がないことも稀ですがあります。

同様に、責任感(もしくは当事者意識)があっても、自分ごと化していないこともありますし、自分ごと化していても責任感(もしくは当事者意識)がないことも稀ですがあるんだなと。

私は今回加わった「自分ごと化」も含め、それぞれを以下のように定義しました。

  • 責任感:「ある特定の役割を担う人が持つ、道義的な思想、合理的な判断、利害感情のいずれか(もしくはいずれも)に影響されて醸成される意識」

  • 当事者意識:「自分がある事象の引き起こし手であるという自覚を深い実感を伴って持っている状態」

  • 自分ごと化:「 その対象を自分の人生にとって大事なこととして捉えていること」

最もわかりづらいのは、当事者意識の定義ではないかと思います。

これはシステム思考でいう「フィードバックループが閉じた状態」であり、U理論でいうレベル3:センシングに到達した状態です。

たとえば、社長のほとんどは、責任感があると思います。それがゆえに、社員がきびきびと働かないことや、最後まで死力を尽くして仕事に取り組もうとしない姿勢に危機感を覚えたりします。そして、自分がいちいち口うるさくいろいろと口を出してしまうことが、何かしらのモチベーションダウンをさせてしまっていることも頭ではわかっています。

しかし、実際に口を出すことで部下がどのような気持ちになり、やる気を失ってしまっている状態を自分が感じているようには実感できていないことが大半です。

これが「責任感があるけれども、当事者意識がない」ということです。


当事者意識が生まれると「しまった。。。やってしまった。。。。自分が部下の立場でも同じようにやる気なくすよ。だって、俺がこんなにも部下を信頼してないんだもん・・・」というグサッとささるような、腹に鉛を抱えたような気持ち悪さ伴った形で葛藤を抱えたりします。


また、同様に引きこもりの子供を抱える親の場合、「責任感もあるし、自分ごと化しているものの、当事者意識がない」ということもありえます。親としての責任感もあれば、子供の幸せが自分の人生にとって大事という意味で「自分ごと化」しています。しかし、子供の目玉からみるかのように、親としての自分が存在していることが子供にどんな影響があるのかを知ることができなかったりします。

したがって、当事者意識は、人間が持つ認知システム上の限界を超えれるかどうかにかかっています。

それに対して、責任感は、ある役割を負った時点で何かしらの影響を状況に対して与えてしまうので、それに対して対応しようとする姿勢です。

しかし、負いたくもないのにその役割を負ってしまったがゆえに、その責任を果たさなければ、自分が不利益を被るというケースにおいても、責任感は発生します。いわゆる「やらねば」で取り組んでいる状況です。

たとえば、大手の親会社から子会社に出向した経営者の中では、単に異動としてその会社に出向できているだけなので、その子会社に対して何の思い入れもなければ、部下に対する愛情もないというケースは起こりえます。

その場合、単純に職務上の役割として社長をやっているだけなので、自分ごと化していないことも十分ありえます。また、そういう中途半端な気持ちでいることが社員にどんな影響を与えているのかを社員が感じているようには感じられないので、当事者意識もないということになります。

その結果、「自分は3年でいなくなるんだし、君たちの会社なんだからしっかりしなさい」ということを平然と口にしたりします。

社員からしてみたら、自分の行く末に多大なる影響を与える親同然の社長から「自分は3年でいなくなる」ということを強調されればされるほど、不安になるのは当たり前なのですが、出向社長は自分の責任としてそれを口にしていたりします。

そして、今回新たに加わった「自分ごと化」です。

これは 「その対象を自分の人生にとって大事なこととして捉えていること」と定義しましたが、それは言い換えれば、自分の人生観、価値観としてそれが大事だということになります。

なので、街のゴミ拾いのように、特定の役割を負っていなくても、「自分ごと化」しているというのはありえます。

ただし、「自分ごと化」している度合いというか、その純度には違いがあると思います。

例えば、先ほどの子会社社長にとって、その出向先の会社の業績は「自分ごと化」しているケースは多いかと思います。なぜなら、自分の業績評価やキャリアに影響を与えるからです。

ただ、その視座が低く、自分の人生観、価値観が磨かれていないために、「自分ごと化」の質が低いということになります。

つまり、「自分ごと化」の質を高めていく上で、究極的に問われるのは死生観ということになります。

自分の死生観が極められていればいるほど、利他的な視点で「自分ごと化」できるといえるでしょう。

また、責任感や自分ごと化ができていたとしても、当事者意識が低いというケースはよくあります。それは認知の限界だからです。

それに対して、自分の周囲への影響を実感できていることから、当事者意識が高ければ、責任感も、自分ごと化は起きやすくなるのですが、あまりにもその状況が深刻すぎたり、プレッシャーが高まりすぎることで、思考停止に陥り、責任感も自分ごと化も起きないということもありえます。

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